髙橋卓志シンボル

異分野協働

異分野協働 チェルノブイリ&Fukushima

聖徳太子が建立したとされる原初の寺「四天王寺」は療病院・施薬院・悲田院・敬田院という組織・機能を持っていた。つまり寺は医療、薬剤、救援、教育にかかわる組織だったのだ。その後、寺の機能は大きく変化するのだが、ぼくはこの「四天王寺」(日本で最初の官寺)のイメージを神宮寺に活かそうと考えた。
そのために異分野との協働を模索し、長野県茅野市の諏訪中央病院・鎌田實(現・名誉院長)さんとさまざまな仕事をやってきた。医者と坊主がつるんだのだ。

異分野協働01

たとえば、1991年から6年間で36回入り、医療支援を行ったチェルノブイリ事故の汚染地域、2011年(チェルノブイリ入りから20年目)の東日本大震災による福島第一原発事故後の南相馬、健康被害が深刻化していた石巻の風呂造り‥‥など。
異分野協働、特に医療との協働によるケアやサポートは、寺が持つ潜在的能力を引き出し、現存能力をブラッシュアップさせる。なぜなら四天王寺がそうだったからだ。

異分野協働

チェルノブイリ

 

チェルノブイリ01

1986年4月26日、大爆発事故を起こしたチェルノブイリ4号炉(1991年3月31日撮影)。持ち込んでいたシンチレーション・サーベイメーターの針はこの場所で振り切れた。

 

チェルノブイリ02

チェルノブイリ原発から半径30㎞(通称=ゾーン)には検問所がいくつかある。ここから先は多くの許可申請・書類が必要となり、ゾーンから出る車はサーベイメーターによる検査を受けねばならない。ぼくは、このゲートを4回超えている。

 

チェルノブイリ03チェルノブイリ04

チェルノブイリ原発から北に170㎞にあるベラルーシ共和国第2の都市ゴメリ。汚染による健康被害対応の拠点病院「ゴメリ州立病院」をぼくらは支援の拠点とした。
甲状腺がんの検診をする信州大学医学部チーム。放射性ヨウ素の大量放出により甲状腺がんが増加していた。

 

チェルノブイリ05チェルノブイリ06


検診を待つ人々。ゴメリ市内から約70㎞、汚染の激しいチェチェルスク村の診療所で。多くの人が子どもを連れて検診にやってきた。皆、子どものいのちが心配なのだ。
ゴメリ州立病院への医療支援物資。毎回数百㎏の器材、医薬品などを、日本から8000㎞離れた場所に運んだ。ドネーション、ファンドレイズ、スポンサーシップ、輸送手続き、人員確保‥‥その労力は半端ではない。それをやり切った。

 

チェルノブイリ07チェルノブイリ08

放射線の管理区域となる値の50倍ほどに汚染された村々は「埋葬の村」と云われ、人々はいなくなった。一方、いったん退出した高齢者が自分の村に帰ってくる現象も多く見られた。その人々は「サマショール(わがままもの)」と云われた。政府の施策に従わないわがままものという意味だ。

フクシマ

 

フクシマ01

2011年3月、津波による電源喪失で水素爆発事故を起こした福島第一原子力発電所。

 

フクシマ02

津波は南相馬の海岸線を襲った。その後、この地域は原発事故による大きな被害を受けることになる。チェルノブイリを体験したぼくは震災発生後3日目、この地に入った。諏訪中央病院の医療チーム支援に入る準備を整えるためだった。

 

フクシマ03

外部の医療機関は原発事故のゾーンには入らなかった。医療者は放射線に極めてシビアだからだ。だが、諏訪中央病院は入った。なぜなら20年前のチェルノブイリ支援の経験と綿密な放射能に関する調査があったからだ。拠点としたのは南相馬市民病院だった。医薬品、日常の必要物資を積み込んだトラックとともに3月20日早朝に入り、支援を開始した。

 

フクシマ04フクシマ05

南相馬市立病院で食事は立ったまま食べた。諏訪中央病院の医療チームは午前中の外来、午後の避難所検診、当直をつとめた。「大変ですね」と聞くぼくに医師たちは「たいしたことないですよ。諏訪中央病院のほうがよほどキツイ」と笑って応えた。

 

フクシマ06

南相馬・鹿島の避難所。多くの人々が親族を亡くしていた。3月20日から相馬農業高校の体育館の遺体安置所での読経がぼくの日課になった。

 

フクシマ07フクシマ08

 

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